大道無門 コラム⑭ 武道スポーツとは

この連載は『月刊空手道』(福昌堂発行)1985年10月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです

空手とは何だろう。どんな技術(手段、方法)を空手と言い、どんな理念を空手と呼ぶのだろうか?こういう声をよく耳にする。

こういった問いに対して、前者の技術的な答えは、その流会派、団体等によって、例えば、空手の正統と胸を張る伝統空手(寸止め)から、新興空手(直接打撃制を取るフルコンタクト派)まで、正に千差万別である。しかも伝統空手の中でも全空連と非全空連の間の確執など、「あんなのは空手ではない」といったものがあるし、また新興流派の中でも、ルーツと言うべき極真会と、そこから派生した流、会派では、指導者の個人的経験から、様々にルールが違い、現在ではかなりその様相が異なっておりとても一概には論じられない。

 後者の理念的な答に対しては、大きく二つに分けられると思う。即ち『空手は武道である』と『空手はスポーツである』というものである。

『空手は武道である』派の根拠は多々あるがその中でも最も代表的な理由は、「空手は日本古来の精神性を伝承しているのであり、スポーツなどでいう精神性もない(?)『競技』や勝敗のみを目的とするものとは違う。空手とは行住座臥が修業であり精神力の鍛練や日本古来の精神文化の伝承などが最高の目的でなければならない」といった所がその主旨である(これは寸止め、フルコンタクトの区別なく『空手は武道である』派ならよく言われる言葉だ)。

 これに対して「空手はスポーツである』派の根拠は、「空手は今や世界に伸びている。そんな時に日本人的発想の精神性とか修業だとかのカビ臭い、陰気臭い事をいっていてはだめだ、世界に通用するように平明な、明るい発想で誰でもが楽しめるものに脱皮していくべきだ」といった所である。

 さて第三者的に見た場合私は、それぞれに一理も二理もあると思う。そういった見地から、私は以前から、空手を『武道スポーツ」として捉えている。その意味する所は上記の二つの考え方にも相通ずると思うのだが遂語的に説明すれば、「武」という面では、格闘技、護身術、武術として有効性のある技術。しかも武術として有効性のある技術。しかもそれは約束事とか、できるはずだというものではなく、実際に興奮状態にある、少なくとも自分と同じ体力の人間を現実に制し得る技。そして、この制するという技を可能にする為の修業の課程で身につける自分自身に対する厳しさ(克己心)、不撓不屈の精神力(忍耐力)、挑戦心、冒険心(野心)といったもの。ひいては勝負を通じて知り得ることができる社会的生存競争の厳しさ、そしてそれを乗り越えようとする意識(野性の喚起)、こういったものを意味している。いわばこれ等の攻撃的、積極的側面が「武」の意味する所だろう。

 しかし、この「武」のみが強調され過ぎると、人間は皆、他に対しては孤独でしかも、どんな手段を使っても勝てば良いという「武」そのものが確かに持つ、弱肉強食、勝利第一主義とでも言うべきもののみが往々にして至高の価値となってしまう。これでは社会的活動としては認められまい。そこで、そういった傾向に対する歯止めとしての道義性というか、道徳性という面が、「武道」の「道」という点である。同じ人間を、同じ人間が闘争の最も生々しい形態である、腕力(物理的力)で制する事を元来が穏やかな民族性(女性的)を持つ日本人が許す為の前提となる人格の潔癖さとか、正々堂々と闘うといった道義観、倫理観。又、同じく人を制するという事への畏れや怖れ、それ等から生じる内省、慎しみ、謙譲、長幼の序といった諸々のいわば知性(理性)を持った動物としての側面である。この「武」と「道」の相反する二者併立により(運動能力や野性のみの競争力が優れているだけでなく)攻撃心(野性)と自制心(理性)とか強弱、緩急のある精神性を備えた厚味のある人格の完成を目指す事ができるとは言えないだろうか。

 そしてスポーツとしての面。前二者は「武」と「道」という相反するものではあるが、空手の本質的な面である。しかし共に気楽に取り組めるイメージという語念を持ってはいない。いわば、今流行の言葉でいうと、「暗く」「重い」イメージがある。何でも軽くて明るいものが良いというモノトーン文化に迎合するつもりはないが、しかし、本質を理解するのは後からでもできる。まず、スポーツという言葉の持つ明るさ、派出さ、楽しさというイメージを借りて、暗く、重いイメージを緩和する。たかが言葉一つだが、「武道スポーツ」というのと「武道」と肩肘張って言うのでは、そのイメージは大きく異なるはずである。

 このイメージを借りるということが単純な理由とすれば、スポーツのもつ「公正さ」は、より重要な本質的な理由である。「闘い」とは言っても、現代の格闘は、生を前提とする事は当然で、これはスポーツのルールに則って行なわれるという大前提があるからである。

 

 元来、武道(武術)の闘いは生死を賭けて行なわれたはずである。それはルールがないからである。宮本武蔵が不意打ちで有馬新七を斬り殺した事を卑怯とは誰も言えないだろう。殺さなければ自分が殺されるのだから。又、姿三四郎が敵を投げて片輪にしたからと言って、非難されるいわれはないだろう。それが、腕力での「闘い」と言うのだから。

 このようにルールのない「闘い」は、最後は殺し合いまで行くのが自然である。それは動物としての人間の一面でもあろう。しかし、こんな事が現代文明社会ではヤクザでもない限り、許されるはずがないのも又、自明の理である。ましてや公開の試合場で、衆人環視の中で行なわれるならば、尚更である。従って、これ等の三つの要素(「武」と「道」と「スポーツ」)を備える事が時代に遅れず、時代に迎合せず、価値ある「空手道」伝承、発展させる道だと、私は思っているのである。以上、「武道スポーツ」という言葉を使う意味について述べさせて頂いたが、皆様は、どう思われるだろうか。