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撮影 牧野壮樹

演武者紹介

※コメントは東塾長、演武順

飯村健一

軽量級(現-230クラス)の伝説が加藤、小川なら、中量級(現-240クラス)の伝説は飯村だろう。1989年、1992年、1994年、2004年と4度の全日本優勝を重ねて「北斗旗の業師」として名をはせ、同じ階級では他の追随を許さなかった。その後、ムエタイの研究にも励み度々バンコクでのリングにも上がって、そこで身に付けたカウンターの膝蹴り、肘打ちなどは後進の選手に大きな影響を与えている。また勝負の世界では往々にして「名選手名監督足りえず」というジンクスがあるが、彼はその軽妙で洒脱な性格を反映して、コーチとして他の格闘技界からも評価されており、選手としての実績だけでなく、多くの北斗旗優勝者(志田淳、小野亮、田中俊輔、末廣智明)ら選手を育成している“名伯楽”としての手腕も持っている。服装が時にラフ過ぎるのは賛否両論だが(笑)。

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加藤清尚

「北斗旗」の初期は「無差別」戦のみであり、当時の軽重量級(現-250クラス)以下の選手には大きな壁として立ちはだかっていた。しかし軽量級でありながら加藤は天性の運動神経とウェイト・トレーニングも含んだ合理的稽古でその壁を崩し、強力なパンチと縦の回し蹴りなどを工夫し、超重量級の選手を相手に「優勢勝ち」ではない「効果」を奪い堂々の無差別優勝を果たした。その後、英国、米国と修業を重ねてキックボクシングのチャンピオンにもなった。1996年、ラスベガスで生死の境をさまよう重大な交通事故にあったが見事にカムバックしたのは、「不撓不屈の精神」の表れだろう。しかし、安全性が高い寝技が3分間中1分認められる現在のルールになったのに、最近は平安や堀越のような例外的な選手を除いて、-250で無差別に挑戦する選手がいないのは残念な事だ。「小よく大を制する」は至難の技ではあるがそれだけにロマンのある言葉である。

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小川英樹

他団体からの挑戦者として北斗旗デビュー。あらゆる武道・格闘技の技でも許容し進化・深化する『大道無門』の理念に共感し、大道塾に入門。その変化自在な動きや、奇想天外(相手が思いつかない)な技で、相手を翻弄し、全日本軽量級7回優勝という記録を打ち立て一時代を築き、空道の技術的発展に大きく影響を与えた「空道のマジシャン小川英樹」が現役時代に用いた技をプレイバック!!おまけとして、空想的体系が多い“護身術”をより現実的なものとするために、今後、空道が研究すべき攻防の体系の一端をご披露したい。

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山崎進

彼も小川と同じく、挑戦者として北斗旗に参戦し、中学高校、大学と磨きをかけた柔道の技を一時は封印し打撃習得に集中し、柔道経験者の中では最も打撃を良く使いこなす選手である。空道の目指すところは「総合武道」であり、打撃+投げ技+寝技の総合計を追及している訳だが、ある意味で、それまでは「打撃が得意だが、その反対はあまり」とかその逆だったりして、それはそれで受けさえ知っていれば自分の得意な技中心戦えるのだが、山崎の「大学レベルの組み技(特に背負い投げが切れる)と北斗旗でも高いレベルの打撃技が合体した所から、「空道独自の技世界が大きく広がった」と言っていいかもしれない。特に「投げに抵抗する大きな選手の注意を、頭突き(打撃)で一瞬他に向けてから投げる、という連携は象徴的で、その後、「空道独自の技術」として他武道に強い印象を与えた。2m10cm、100kgの超大型選手で、後に度々K-1で優勝したセムシュルトを投げまくった試合(1996年)も記憶に残る。

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稲垣拓一

大道塾の技術理念は「総合武道」で、精神的理念は「社会体育」である。この後者の理念を頑なに守りつつ無差別優勝を重ねた選手である。いまでこそ大道塾大型選手の代表選手のように言われる稲垣だが、大学時代に当時、総本部があった仙台で大道塾を始めたころは70Kg前後の細身の選手でどちらかというとテクニシャンに属した。大学卒業後、上京し中堅ゼネコンに就職し道場から離れている間にウェイト・トレーニングで体力を向上させ、東京に移転した総本部に戻った頃は、持ち前のテクニックにパワーを備えて押しも押されない重量級のエースとなった。第一回世界大会では重量級(260+)優勝候補の筆頭に数えられていたが、「護身術としての本道、『打撃』で倒してやる」と、寝技でチャンスがあったにも拘らずロシア1のパワーファイター相手に3分3ラウンド打ち合い、僅差で敗れた。そのパワーファイトは警備会社を経営している今でも健在であり、現役の無差別優勝者、加藤久輝をして「稲垣先輩が目標です」と言わしめる。

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更新日 2011.11.17