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コラム13 矢のごとし光陰に、爪痕なりを(「還暦雑感」改稿)

ここから後半(前半は穏やかな話題だったので、「です、ます調」でしたが、後半は熱を帯びて来たので「だ、である調」になってしまいました(修行が足りないなー笑)

  私は元々人間が温厚なせいか他人と波風を立てるのは好きな方じゃないのですが(異論も多々あるでしょうが 笑 )、還暦を迎えて体形だけでなく心も一層丸みを帯びてきて、「塾長も立派な人になりましたねー」と弟子にも誉められる位ですから、大抵の事は「ま、良いか!こんなことで“目くじら”を立てることもないだろう。あんなことをする相手にもそれなりの理由と事情があるのだろうから・・・」で流すようにしています。エライ!

しかし、最近、そう余裕をかましてもいられないような現象が武道界に続出し、「これは放置してはいけないんじゃないか?」、「このままでは、それでなくても少子高齢化で武道をしようなどという奇特な若者が減っているのに、せっかくその方面に向いた純粋な若者を無駄に消耗させてしまうのでは・・・」と危機感すらを持って来たのです。(「一発食らわせておかないと!」等とは夢想だにしません、エライ!)

所謂、名人達人の、単なる物理、合理では割り切れない「軽く触れば(いや触りさえしないで)相手が倒れたり、吹っ飛んで行く神秘の武道」の話です。確かに我々が若かった昔から(大昔、ではない!)こういう話(講釈?)はあったのです。私も子供の頃はそういう摩訶不思議な武道、武術の存在を夢想して様々な格闘技や武道、武術に興味を持ったものでした。

古くは「忍術 (今だに海外では!) 」。「○○○バレエ団の不思議な武術(合気道?)」。相手に触れることなく倒せる「○当て」の空手。「○証法」を応用した空手。更に「○角の構え」の○法。何と1000人組手もするという空手。中国武術から進歩した「何とか拳法」。我々普通のIQでは反論のしようがない「東大のいろんな先生たちが主唱するいろんな武道や武術 (2009年もその系列の新しい「名人達人の本」が出版された!)」。そして最近では「筋力では到達できない境地に至る武術や空手」等々・・・・・。 こういった武道・武術に夢を掛けた若者達や「空手道ビジネスマンクラス練馬支部」(夢枕獏 講談社刊)に描かれたような肉体的屈辱を味わった多くの中年の希望を繋いできた神秘・奇跡の武術・武道が今迄幾つあったのだろうか??あるものは少数を相手にしている分には辻褄合わせができていたものを、“純真な信者”や“新しい武道・術、格闘技”を見つけ紹介することで自己の拡大(名声、売り上げ増)にも繋げる格闘ジャーナリスト等の紹介により、一時的に多くの人間の耳目を集めて目覚ましく伸び、しかしそれ故に間もなく馬脚を現し、急激に衰えて行く。あるものはその特異な武術、武道を余り声高になって主張したりして周りを刺激し足を掛けられたりしないように注意深く“地道に(?)”しかし堂々とその神秘の武道・術を今日まで生きながらえさせたりと、様々な生々流転を繰り返している。

私も一応、人が“凄い”というものや、マスコミが囃し立てる物には、電車賃を掛けてまでそれなりの探りや観戦に行ったものでした。しかし幸いなことに(笑)青年期の私は、海外に出たいとの「現実的な夢」に酔い、一つの武道に打ち込んでいたし、それまでの“現実の場での経験”や柔道、自衛隊での徒手格闘等々をしていて、“ど素人”ではなかったので、そうそう他の武道や武術惑わされることはなかったのですが、そういう経験のない人は、マスコミの煽る(?)これらの武道や武術にはかなり影響されたのではないでしょうか?

しかし感性が鈍い私には、それらには殆ど影響された覚えはなく、それまで取り組んできた、神秘性は薬にしたくてもなく、少しの知恵を働かせて組み立てた技を、体で表現できるように、時には一人で、時には相手を立てて、古臭い汗と根気(性?)を頼りに反復練習するだけの「単純だがそれなりに辛い武道」だけが手応えを感じさせてくれましたものでした。
所がいま時代はバーチャルです。少子化で兄弟がなかったり少なかったり、学年上のガキ大将が引っ張る集団で他人と触れ合いながら人との付き合い方を覚える場も機会も少ない。子供時代から自分の部屋を持ち“テレビゲーム”という一人遊びが普通で、実体験なしの想像力だけを膨らませる遊びで育つ。その上、オギャーと生まれる前から(母の胎内から)テレビ漬けになっているから、少ない時間で読む本というと教科書か受験参考書が主で、感性を養う詩や小説、随筆と言った文字を追う習慣もない。

これらは言葉の誇張を見抜く言語感覚や、それを発する人間の真実を感じ取る感性が育っていないということで、分野は違うが一流大学の学生や卒業生で、厳しい受験戦争を勝ち抜き、難しい学問を修めたはずのいわゆる“勝組の若者”が、普通の感覚を持っていれば違和感を持ったはずの、Aのようなエセ宗教家にいとも簡単にだまされ殺人までしてしまうという馬鹿げた風潮と根っ子では繋がっているような気がする。

ましてや受験参考書すら読まないで、漫画で想像力を膨らませ劇画で情報を得て来た“普通の若者”が、生き方を含めて様々な相談事をするような、濃密な付き合いを持つ他人がいない場合、何かの切っ掛けでこういった“神秘”がそれらしく書かれた本を読んだ場合、それまで大して縁のなかった「文字を読む」という“非日常の行為”なのに、自分は分かる!という感動と自尊を味わうと、真面目であればあるほど“コロッと”信者になるのも無理はない。正に“活字”の魔力である。昨今のそんなこんなが、「試合を通じて様々な技や戦法などを検証しつつ進んでいる生身の武道」から若者を遠ざけているような気がしてならない。

しかし最近の問題は、上述したいわゆる“オタク”だけではなく、何よりも現実、実際を重視するはずの、体を使って自分を鍛えて来た者たちまでが、影響され始まっているという点である。そうなると「しょうがないなーバーチャル世代は・・・」とシニカルに構えてばかりではいられない。それでなくても日本武道の地盤沈下があちこちで現れ始まった今、これを見逃していては日本を支えてきた武道文化が、取り返しのつかないことになってしまうのでは……と思うからだ。

その始まりは大体こうだ。「ここを押さえてみなさい」とか「こう抑えたなら動けるかな?」などと言われて力一杯掴んだり抑えたはずが、簡単に外されたり動けなかったりすると、今までやってきた「こう来たならこう返して」といった体系とは別な、何か目に見えない精神や気が作用する体系があるのかと思うのだろう。その上、「武道はもっと理解され一般社会に貢献できるはずなのに、印象が重すぎ暗すぎるから警戒され積極的には場所を与えて貰えない。だから“怖い顔”や“しかつめらしい態度所作”を避け、敢えて“普通の人”であろうという最近の傾向で育っている若者には、それと逆の文化(雰囲気)は魅力的に映るのかもしれない。

前半の技術に関しては全くのウソではないだろう。他の武道の原理を借りたり、相乗させて(多いのが空手+合気道だ)未知の威力を生んだりする。又、一定の条件下での現象で“そのことだけ”は出来るのはあるだろう。が、最も重要な「ではそれを実際の戦い(やスパーリング)の中で使えるのか?」となると、それを証明してくれた名人、達人を私は寡聞にして知らない。もし本人が高齢で無理なら(?しかし年齢に関係ないという人もいるのだが・・・・。)「弟子でも良いから試合に出て証明して貰いたい」。言い方が不遜なら、“純粋に”「“実際の場”でのそれを見てみたい」のは、この世界に生きている多くの修行者の普通の感覚なはずだ。

東孝 氷柱割り

この世界で長く年月を重ねれば武道界では“体力派”もしくは“ガハ派(笑)”に見られているかもしれない私でも、種明かしをしなければ “奇跡”や“神秘”の2つや3つはできる 笑。しかしそんな回りくどいことをしなくても、自慢げに聞こえるかもしれないが(私の中では冗談半分で言うのだが)「氷柱6本脛折り」だって、「氷柱13段手刀割り」だって十分に“奇跡”で“神秘”なはずなのだが。但し、36貫(28cmX56cmX106cm)の氷柱を5枚に切った“既定通り”の氷(28cmX56cmX21.2cm)ならだが。しかし最近は6枚に(酷いのは7枚!)それこそ“スライス”して枚数を増やして割ったり、試割り用バット(!)というグリップが2,3cmしかない“棒”か“スティック”とでも言うべきものを 5,6本を束ねて折る、それこそ「恥かしーぃ」“キセキ”や“シンピ”はよく見る 泣&笑)

さもない下段蹴りだって相手が動かないなら「足に思いっきり力を入れていいよ」と言って十分に構えさせたにしろ、私が最盛期の時の右足で蹴ったなら十中八九その脚を折ることができたはずだ。初めてフルコンの世界大会でバットの“1本折り”を見たときの衝撃を思い出せば、チャンとしたスポーツ店から正規の圧縮バットを買って3本束ねて折ることだって“奇跡”だろう!だが私はそんなことをしたって闘いの中で動いている人間相手ではそうはいかないことを知っているし、そんなことで自慢したなら“見る目を持っている人間”に嗤われるという自負、自信(笑)があったからしなかった。最近そこまで危険じゃないから(泣き)酔った席でよく弟子にせがまれ座興でその脛を蹴って、次の日、逆に「膝が痛テェー」と騒いでいるが 爆。

冗談はさておき、だからこそ私は今でもスパーリングに拘る。そしてその度に「昔はこの蹴りが入ったなら相手は転げまわってたんだがなー」とため息をつく(笑)。しかしそれでも符丁が通じる中で“脳内名人”になって、「いざ鎌倉!」の時に恥をかくよりは良いと思っている。第一“名人”を維持するために毎日“しかつめ”らしい顔をしてストレスを抱えるより、等身大で生き、初心忘れずしっかり汗をかきビールを煽って、みんなと楽しくした方が、敵は作らないし、心身共に元気でいられる。これ以上ない、“最高の護身術”である。(「百戦百勝、非善之善者也、不戦而屈人之兵、善之善者也 百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり、戦わずして人の兵を屈するが、善の善なるものなり」である。

閑話休題(還暦になっても“はみ出し”は“はみ出し”かー)本当は、こんな説教じみた(訳知り顔の?)ことは、やっと60歳になったこの世界ではまだまだ若造の私ごときが言う話ではないのだ。もっともっと経験もあり、実績を持っている先達の方々が、武道界には綺羅星のごとくいるはずなんで、なぜこんな“奇跡”や“神秘”の横行を野放しにしているのだろうか?と真実思う。しかし、重鎮、大御所のどなたも、そもそも、「そんなのは相手にしない」のか「今までと同じように、自然と年月の淘汰に掛けられるんだ」、「そんなことで時間を取られるなら日々の鍛錬で気合を入れ汗を流した方が前向きだ」と思っているのか、何の言葉も発しない。

子、不語怪・力・乱・神。子(し)、怪(かい)・力(りょく)・乱(らん)・神(しん)を語らず。弟子の子路が霊魂や鬼神など理屈では理解の出来ない世界のことを度々聞くので、「超常現象や神など人間と して理解しがたいことに関して私は語らない」と孔子が諌めた故事に習っているのかもしれないが・・・・。

しかし私は「大人げない!」と言われるかもしれないが敢えて言う。言わなければこの現象は、新興宗教と同じで体を虐める苦しさはないし、同じような内向きの人間が多くなっている今日、「我々だけが知っている」的な同志感や一体感も共有できるので、どんどん広がって行くはずだからだ。尤も私も頭から否定するのではない。“超常現象” や“超能力”なども全くない話だとは思わない。あの一世を風靡した“スプーン曲げ”でさえ科学的に否定されたわけではなく、その真実は解明されていないのだそうだ(月刊「新潮45」『スプーン曲げ』の清田君とは何者だったのか)又、気功という中国式のそれこそ何百年続いている民間治療法もある。何らかの超自然的な力はないとはいえないかもしれない。しかしそれが人を吹っ飛ばしたり、年を取るほどに強くなるなどと言うことは、まず、ないということを言いたいのだ。

若い時の脚力に支えられた重い蹴りや背筋力に任せた強力なパンチは使えなくなるだろうが、日々の(週○回のも含めて)コンスタントな鍛錬を続けていれば、状況判断力や駆け引きは経験年数に応じて蓄積されるものだから(年を取る度に強くなるは“夢想”だが※)、50歳でも普通の30歳台以上の、60歳台なのに普通の40歳台並の、70歳なのに普通の50歳台にも負けない強さは維持できる。それは何もしていない20歳台の若者や同年輩よりは“格段に”強いはずだ。(※それはそれこそ理論的にありえないだろう。死ぬ寸前までどんな若いものより強い達人がいるということは、返す刀で問えば、死ぬという生理的な現象-体の各機関の停止を考えれば、“体の各機関が停止寸前の師”をも凌駕出来ない若い弟子と言うのは、それまで何を学んでいたのか?という自然な問いに繋がるのではないのか?)

終えれば爽快な時間と充実感が横溢するにしても、この道は幾つになっても苦しい思いをし、息を切らしながら汗を流すしかない。タヌキ親父等と余り良い印象を持たれないが300年という太平の世をもたらした徳川家康の「人生は重き荷を負うて行くが如し、焦るべからず」とかドイツのフェデラーという作家の「平凡な人生こそ真の人生だ。実際、虚飾や、特異から遠くはなれたところにのみ真実があるからだ」との言葉の重みをもう一度味わってみるべきだろう(「家康」は中学時代2,3度読んだが、後者はネットで探した言葉だ 笑)

前半で終わっていればこんなアホ臭い話にお付き合いもしないですんだのでしょうが、幸か不幸か(不幸か、不幸か?)私と巡り合った方々は、これも「他生の縁」と観念して、もう暫らく今後とも宜しくお付き合いのほどをお願い致しまして、本日の口上(雑文)、仕舞とさせて頂きます。ご静聴、じゃないご笑覧有難うございました。

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