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コラム04  無題

格闘技の凄まじい人気、認知度は、御承知のとおりで、ゴールデンタイムのテレビ放映など、一昔前では考えられないことです。それに対して“武道”の観点からは、将来の未知的部分、派手すぎる演出など批判があるのも事実です。一方、これによって、空手及び格闘技の名が広まったという事実も見過ごせません。将来の未知的部分があるとは言え、銀行までが倒産する混迷の時代において、それを見た若者が、「格闘技でメシを食いたい!“プロ”(語感がまた、カッコイイ!)になりたい!」と思うのも無理がないのかもしれません。若者の純粋な願望で、好きな道を貫き、それで失敗しても本人の選んだ道ですから、良いじゃないか。いつだって若者は未知なるものに賭けて人生を切り開いて行くのだから、という声があるのも知っています。そこで今回はこの件にについて、日頃想っている事を述べてみたいと思います。

まず、プロという言葉について定義してみると、全くの個人として頂点のみを目指すトーナメントプロと、教える事で月謝という対価を生活の糧とするレッスンプロがある。

まず後者の“レッスンプロ”について私の考えとしては、20年前に若気の至り(?)で踏み出した、まだ海のものとも山のものとも知れない大道塾を、若い時の修行というのならまだしも、生活の手段としても(と言う事は一生の仕事として)勧める事に確信を持てなかった。更に、若くて血気にはやっている“選手”は強くなる事だけで頭が一杯で気づかない、また気づいても眼中にない事だろうが、柔道や剣道のような、社会に充分に認められ、“学校体育にも入っているような武道”と空手(特にフルコン系)の“社会的立場”は明確に違うという理由もあった。

背景を詮索されるような団体も多い空手界(これは寸止め系、フルコン系を問わずだが)は、残念ながら社会的信用度が低い。しかもその上に、寸止め系は日本体育協会傘下で“公共の場”で教える事が多いからそれほどでもないが、フルコン系の場合 “任意団体” と言うことで、人気稼業にならざるを得ず、その時の団体の勢いでの入門者の増減が激しいし、個人的にも職業病とでもいうべき怪我が即生活の不安定さにも繋がる。無責任に俺について来いと言うのはカッコイイし簡単だ。しかし私は25年前に憧れのアメリカで味わった、空虚感というか挫折感を若者に味あわせたくはなかった。幸いにも私にはそれまでの社会生活で培ってきた“雑草精神”があったから良かったが、社会経験の浅い若者に、必ず出来るという確信がなければ、人の人生を左右する言葉など言えるものではない。それよりは、空手一本で青春を過ごしたことで、職業知識は同年代よりは確実に少なく、初めは給与も安いだろうが、昼間は会社勤務をしながら夜間教えるというパターンを数年も続ければ両方が良い影響を及ぼし合って(仕事上の知合いが武道を教えているという事を聞いて、それでは子供を躾て欲しいと入門させるとか、逆に空手の生徒やその親が“先生”の仕事の話を聞いて良い関係が出来るとかで)安定した人生を送れるし又、多くの父親の方もそれを望んだ。

だから初期の頃の寮生には、家業のあるものは別として、道場と両立しやすい自営業、特に整骨院や公務員を役員の協力を得ながら強く勧めた。(公務員の方は社会が経済的不安要素が強くなって志望者が増え敷居が高くなったので2、3人しか成功しなかったが、整骨院等に進んだ人間の多くは)今では地域に溶け込み“先生”として仕事と道場を両立させており、「ああこれで俺のところにきた若者を、少しは骨のある、そして生活力もある人間にして送り返す事が出来たな」と責任を果たしたような安心感を持つ事が出来たものだった。

だがそれも、その後の異常な格闘技(雑誌?)ブームが起こり、好きな道一本で食えるのではと言う幻想が広まった頃からは、「まだ経済基盤も、健全な競技としても確立されていないから、あくまでも仕事との両立を」と言う私の言葉も説得力がなくなってしまった。なにも他人の人生、そこまで考えなくてもと言う人は多いが、人の話に耳を閉ざし、自分から自縄自縛になったり、落伍して行くく人間はどうしようもないが前述した様に、大道塾に集まってきた若者で、素直に一生懸命努力している人間には後悔はさせたくないという、逆に言うと大道塾は誰にも後ろ指を刺されない団体なんだと言う自負心(自惚れ?)の強い、(気の小さい?)性分の私としては、それは出来ない。

しかし幸いな事に、支部長、責任者達の協力や、その間の選手達の頑張り、運営的に苦しくても健全な活動を心掛けてきた事等などにより、大道塾も一般的“人気”という意味ではまだ不十分とは言え、さてなにか武道をしようと思った時には頭に浮かぶ“良い印象の団体”の一つといった程度には知名度を待ってきているし、実際これ専業で生活している支部も出てきているので、最近は肯定的になって来ている。 

と言うのは、「やはり仕事との両立を」という方向も、そのような両立しやすい仕事についた者は別にして、そのほかの分野に進んだ場合、社会的適応力がありそうな人間でも、いざ社会に出ると中々の悪戦苦闘を余儀なくされているのを見るに付け、“好きこそものの上手なれ”で他の一般の若者が、他の分野の技術、仕事を学んでいる二十代に、闘うことに生きがいを見い出し、その技術を蓄積している選手にとってその分野が最も自分を生かせる得意な分野になるのかな、ということをこの二十年来度々見てきているから、安心は出来ないが(と言う事はいつまでも心配の種ではあるのだが)不安定でも、それを本人が覚悟するなら良いのかなという考えにもなりつつあるからである。

問題は前者のトーナメントプロ、つまり闘うことのみで生計を立てる“プロ”である。 “トーナメントプロ”という言葉で思い浮かぶのは、先ず大きなものはプロボクシングとプロレスだろうか。(大相撲もそうであるが、これは論ずる必要もないぐらいに確立しているので、ここでは論じない、能力があると思う人はどうぞ、である)

プロボクシングとプロレスは柔道と空手の関係に似ている。プロボクシングは柔道と同じく早くから体制が統一的に運営され、アマチュアとしてオリンピックにもなり、その“確立されたルール”を元に、プロとしてもあからさまな八百長もなく、ボクシングという競技自体が歴史的、体制的に他の追随を許さないレベルにまで達しているから、生活人としては柔道の世界チャンピオンが少なくとも日本では大きく将来を約束してくれるのと違い、プロボクシングの世界チャンピオンを4、5度防衛しないと殆ど無理だいうことは、今では周知の事実だが、引退後もレッスンプロとして生きることも出来るし、それ以上に、おしも押されもしない“成功者”として誇りを持って存在できるからだ。確かに“生活”だけが人生じゃないと言うのも人生の真理のひとつだろう。(それも程度問題で、いくら“武道”的に優れていてもじぶんの生活や家庭くらいは賄えなくては、“ヒモ”になってしまう。一時代前の劇画の世界では面白いが)

一方のプロレスは空手と同じく早くに統一的団体を結成できなかった為に組織や、ルールが乱立し、ルールによって勝者と敗者が容易に入れ替わる。その上、地域での社会体育育成という方法ではなく、興業で組織運営をしてきたプロレスでは、団体間の激しい競争に勝ち残る為には、確立されたルールで次第に権威を確立するという“回り道(?)”より、手っ取り早く、看板選手の牽引力(集客力)で運営をするという個人商店的運営をしてきた。その為、その選手が衰えてくると、どうしても“不信な試合”が増えざるを得ない。(それに対し実力的に優位に立った若手がクーデターを起こすという事の繰り返しで、団体の栄枯盛衰、離合集散は度々であり、プロボクシングや柔道に比べて、今一つ権威が蓄積されず芸能人的人気は現役時代には一時的に持てても、この情報万能の時代2、3年すればすぐに忘れ去られてしまい、オフィシャルな意味でも“成功者”とは言いにくいだろう)

空手のプロ部門を作るという件については、さらに、“武道”として前述したような“不信な試合”は論外としても、ボクシングにはプロがあるが柔道にはプロはないという、競技理念の違いから来る次ぎのような又別な事情がある。(現実的にプロレスは、柔道のプロ部門だと言うことも出来なくはないが、少なくとも柔道側が積極的に勧めている訳ではない) 即ちスポーツ化されたとはいってもまだ柔道も“道”という概念(と文字を)を全く捨てたわけではない。それぞれの個人が、それぞれの立場や目的で「人生に立ち向かうという意味での“靭さ”」を目指す“武道”もしくは“アマチュアスポーツ”としての理念を掲げながら、仮にプロ部門を設立し、プロの育成にも重点を置くことになると、どうしても金銭的報酬が絡む際の人間(社会?)の本能として「勝つ事(したがって“金”を稼ぐこと。当然、負ければそれまでの努力も無意味となる)」を至上目的とするような方向性が強くなってしまうだろう。そして結果として運動神経の善し悪しに関係なく、誰もが参加可能な「生涯スポーツ」として、勝敗のみではなく闘うことの過程にも価値を置き、その努力する心や体力を社会生活に生かそうとする、「社会体育」としての意義を土台とする団体の下部組織の形成、維持は非常に困難となるだろう。

つまり、トーナメントプロにこだわれば「勝つ」ことのみが最終目標となる。逆にアマチュアにこだわれば、トーナメントプロを養成する環境としては不十分となる。それでは「格闘空手」と「社会体育」の両立を理想とする大道塾の理念とも大きくずれてしまう。現実に、一団体内でプロとアマを両立させると言うことは、今迄どの競技団体も成功はしていない。公認された“武道”もしくは“スポーツ”として柔道や剣道、ボクシングやレスリングと言った種目の場合、学校教師とか、道場主としてのレッスンプロならありうるがトーナメントプロというものはない(念の為言うと、アマチュアボクシングとプロボクシングは同一団体ではない)。

最後に経済基盤について。2年程前、アマチュアの一代表として、WARSを行った。この時は、日々並々ならぬ練習量をこなしているプロの選手を相手に、普段は社会人としてそれぞれの仕事に従事している選手達が、寝る間も惜しんで仕事の後に練習し「よくぞここまで」と言うほどの活躍を見せてくれた。 しかし、何度もそれを期待する事は出来ないし、七面倒くさい“理念”を持つ“武道”より単純に勝ったか負けたかを論ずる事の出来る“格闘技”が盛んになった今日、世間の関心は、「勝つか負けるか」であって、アマチュアがよくあそこまでやったとは見てはくれない。つまり、プロであれアマであれ、今は勝つことこそが全てなのである。

そうなると、当然一日中を練習のみに費やす「プロ」を養成しなければ不利になるのは明らかであるが、それには前述した「社会体育」と「プロ育成」という問題と、その前に個人的には選手の「生活費」、団体としてはその「運営費」、の問題がある。信じられないと思うが、これだけ興業が派手になりファイトマネーも高騰すると興行収入でコンスタントにそれを得るのは大抵の場合無理である。日本の場合、普通の民間会社は、テレビにでも出れるぐらいに成長した時は応援してくれるだろうが、成長するまでは、(球技やマラソンなどは別だが)それまでは殆ど期待できない。それまでの大きななスポンサー(?)が必用なのだ。幸か不幸か大道塾にはそのようなスポンサーはなかった。どう見るかは立場の違いだろうが、だからこそ現在の大道塾なのである。

文書日付2001.6

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