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コラム03  50歳 武道 教育 自転車

この文章は二年前に機関紙15号に書いたものだが今読んでも十分に生きている(いや益々酷くなっていると言うべきか)と思うので読んで頂きたい。

論語の「為政篇」に、学校で教えられ誰でも知っている「われ十有五にして学を志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)。五十にして天命を知り(知命)、六十にして耳(みみ)順(したが)い(耳順)、七十にして心の欲するところに従いて、矩(のり――きまり)を踰(こ)えず(従心)」という有名な文句があり、十五歳、三十歳、四十歳と、該当する歳にはそれぞれに感慨深いものがあったが、いざ五十歳を目の前にした今(現在52歳目前)、「天命」を知るかと自問すればはなはだ心許ないものがある。

十五の歳に思い描いた自分の人生の、その何分の一も実現できず、ただ漫然と重ねてきた年月を振り返って見ると、まさに「光陰矢のごとし、少年老い易く学なり難し」とか「馬上少年過ぐ、盛年重ねて来らず」で、忸怩たるものがあり、自分の器量のなさに「天命を知る」どころか「天を仰いで溜息をついてしまう」この頃である。

と、それらしく嘆いて見せてもそこは縁なき衆生、その一方で、「確かに、お前もそろそろ若いのと一緒に動くのが少しはキツクなってきたろうし、ご苦労な事に、日本語の通じない、訳の分らん今の若い者を相手にして腹を立てたり呆れたりと、心身をすり減らす毎日ではあろう。しかし成り行きにせよ何にせよ、結果として自分で選んだ道で、しかも仕事として汗を流せて美味いビールも飲める。活字を拾う時間もたまにはあるという日々を過ごしていて、何を辛気臭い事を言ってるんだ。世の中には無神経な他人に煩わされながらも、多少自分の意に染まない仕事をし、しかも「月給鳥(取り)」ぐらいにしか思われていない家族を背負いながらも、人生を真摯に生きている人が大勢いるんだ、ふざけた事を言ってると罰を下すぞ!」との天の声に、そーだなー、と自分でも納得してる。

十二分に納得はしている。だがしかしである。もう少し今の若い連中の、自分本位というか自分中心というか、「他人や社会なんて関係ない、自分(達?)が世界の中心で、自分(達?)が納得してれば良いんだ」というような言動は何とかならないものか、と思ってしまうのは歳を取った証拠だろうか?先日ある交差点で、信号が青で対向車もいなかったので、右折したところ、右側から交差点に向かってた、今流行りに自転車の後に彼女を立のりさせた高校生と仲間の2,3人が、一旦止まっていた左側車線側の停止線に止まっていたのに、急にその停止線に沿ってしかも、こちらの車をまったく眼中にないがごとくに、目の前を横切っていった。まさかそんな事をするとは思はないから、危なくぶつかりそうになったので、急ブレーキを踏んで事無きを得た。(こんなとき打撃系で養った反射神経は本当に役に立つ)「危ないなー」と思って彼らのほうを見ると、すみませんどころか逆に「何してんだよ」みたいな事を言いながら、顔をしかめて走り去ろうとする。

冗談じゃない、こっちが今でも身体を動かしてるから、反射神経が間一髪のところで事故を回避してくれたが、もう一瞬遅かったら確実にぶつかってる。そうなれば歩行者優先で、ほとんど車のほうが悪くなるに決まってる。ここは少し注意(?)すべきだろうと車を降りて「気をつけろ、危ないだろう」といったところ「そっちが止まれば良いじゃないか」と来た。「このガキが」と(少しムッとしたので日頃の上品?さを忘れて)思ってしまったが、この手の話は東京では良く聞く話だし、私の回りではそうでもないにしろ(?)最近の日本では若いのが素直に「ハイ」とか、ましてや「スミマセン」なんて言わないのは、なあーんにも珍しくもないので「なに言ってんだ、お前のほうの信号が赤なんだから停止線で止まってるのが当然だろう」と本来の自分に戻り、あくまでも紳士的に理屈で責(攻?)めたところ、なんと「そんな事、学校で教わっていないもの」ときた。

まー確かに高校では「信号が赤のときには止まりましょう」とは教えないだろうなーと、あまりに意表を突いた名(迷)答に、さすがに一瞬呆気に取られていると、後ろに乗ってる女子高生は女子高生で、これまた今流行りの傍若無人に、われ関せずといった風で「ねー早くいこー」だ。全く怖さを知らないと言うか、天真爛漫と言うか・・。

「なーに、学校の先生(センコー?)と同じで大人は絶対に手を出さないだろう。殴ったなら殴ったでその時はこっちのものだ、訴えてやる」ぐらいに考えてるのだろう。こりゃまともに話してもだめだとモードを変えて、渋く「こら、ここは学校と違うんだぞ,世の中には○○○○もたくさんいるんだし、○○○なってから遭うということもあるんだぞ云々(略)」と諭し(?)た所やっと理解(?)したようだった。通学路だろうがその後は暫く見かけないから、自動車学校で交通法規でも習ってるのかもしれない。良い事だ。

この話は日常の“さもない話”だが(でもないと思うが、もうこんな事で驚いては東京では暮らせません――ある人が、「東は東京に行ってから人間が悪くなった」と言ったそうだが、本当にそうかもしれないなー) それにしても一昔前ならこんな風にして、非常識な言動をすれば確実に、コワイ親、先輩、上司に注意されるとか、果てはぶん殴られたり(たま−に、ホント、たま−に優しくされり)して、“矯正”され、どうしようもないと見られていた連中でも何とか、「人の間で生きる」と言う意味での“人間”となっていったのだ。

一方、反対の話だがこんな事もある。私が夕方から人に会う予定が入り、たまに「自主トレ(個人トレ−ニング)」を少年部の時間帯にするときがある。そんなときは、子供たちが道場に入ってくる時から稽古中まで、自分の練習をしながら、いろいろに挨拶や技について声を掛けるのだが、ある子供は入門から暫くしてもなかなか返事や挨拶が出来ない。道場に入った時、私がトレーニングをしてるのを見るとほとんどの子供は一丁前に「先生オスッ」だったり、単に「オスっ」なりの空手的な挨拶をするのだが、この子だけは全くする様子がない。ただ黙って顔も見ないで横を通りすぎる。悪気があるとか反抗的だとかでは全くないのだが、今はそういう基本的な躾を家庭でされていない子供が結構いる。そういう時は、まず一応の挨拶は教えるが、始めからあまり無理強いすると、慣れる前に道場に来なくなってしまう。それでは元も子もなくなってしまうので、少しずつ、徐々に教えて行くようにする。その後も、たまに「あいさつは?」と促すのだが、それでも1ヶ月ぐらいはしたりしなかったりだった。稽古中でも指導員の声にもなかなか返答しない。ただ私(大人)が少年部の隣で、必死の形相をしてバーベルを上げたり担いだりしてるのは気になるらしく、時々チラチラ横目で様子を見ているから、脈があるのは経験上、解っていた。

それから、又ひと月ぐらいして、私が考え事をしながらトレーニングをしていた時、その子が入ってくるのに気がつかないでいた。ところがその子は私の前でピタリと止まると自分のほうから大きい声で「先生、オッス!」と言ってきた。「おー!やっと挨拶が出来るようになったな」とホットしたと言うか、「やっぱり武道の教育力はすごいなー」と再認識したものだった。と同時に、若いのを教えていると暗澹となる事も多いが、こんなときは「本当に武道を教えていて良かったな」と思う。おそらくこの子はそれまでは学校でも挨拶はしなかったろうし、いまもどうかはわからない。しかし少なくとも道場ではするようになった。後は何かのきっかけでその他の場所でもするようになるはずだ。これは、この子供のこれからの人間関係や人生にとって大きな変化・進歩だったはずである。

こう言うと「いやそれは先輩とか先生が怖いからで心からのものではない」などと言う人が必ずいる。しかし、口幅ったいことを言わせてもらえば「教育」というものは基本的に「畏敬(いけい―おそれ、うやまう)」であろうが「尊敬」であろうが「敬愛(うやまい、したう)」であろうが、相手に一目置くところから始まるものだ。(なるほど、だから私の弟子は私の言う事を聞かないのか!納得!)この子にとって、コワイ顔をして練習をしている大人が、会うと「挨拶は?」と聞いてくるのは無視できない事だったはずである。(こう言う経験をするたびに、「多少“その気”のあった私が、中学校で怖い先生に会わなかったり、武道の世界に足を踏み入れてなかったなら確実に人生は違っていただろーなー」とはいつも思っている事である)

これを「一切強制せず、同じ目線で話せば分る」とか「愛情を持って接すればいつかは立ち直る」などという“優しさ”だけを前面に出した、夢想的、自己満足的な接し方をすれば、たちまち子供は怖さのない大人の足元を見てしまう。現実に戦後教育・民主主義教育とやらのお陰で、誰もが物分かりのよい優しい親、先輩、教師、上司になってしまった。その為、どうしても人と人とが触れ合わざるをえない人間社会で、気持ち良くとまでも言わないまでも、少なくとも互いが厭な気分にならないような最低限の挨拶・礼儀、社会的常識(筋とか規範)といったものを、しっかりと教えるウルサイ(コワイ?)人が急速にいなくなってしまった。

その結果が、上の例でも挙げたように、最近増えている、小さな習慣(朝夕の挨拶、親子や、先輩、後輩の間の言葉遣いなど)があれば生じるはずのない人間関係のストレスを生み、あっちでもイライラ、ギクシャク、こっちでもイライラ、ギクシャク、とした世の中を招いた。それが、家庭の崩壊、学校教育の荒廃、共同体意識(愛社精神・愛国心など)の欠如につながり、オカルトや新興宗教の跋扈(人間関係が信用できないからないから、擬似家族制度に惹かれたりになにか超越的なものを幻想して帰依してしまう)までを招いて、遂に昨今の社会不安の渦巻く日本にしてしまった。正に「修身斉家治国平天下」の逆である。

二言めには「うるせーなー、法律に触れなけりゃ何をやっても良いだろう。あんた(お前)には関係ね−よ」とか、一見、逆に見えるが、「回りの多くの人間がそう言う(する)からそれで良いんだろう」と、まったく人間関係の常識や責任ある社会人としての立場を忘れた(無視した?)行動を取る人間」(共に「自分と他人」、「自分たちと社会」とのつながりを忘れているという意味で“幼稚”としか言えない)が大量に“発生”してしまった。巷間、言われている“ビッグバン”や“グローバルスタンダード”による、海外資本の侵攻を待たないで、日本社会は自からの内部崩壊が始まっているような気がする。

時には(しばしば?)自分の運や器量を嘆いたり、訳けのわからない人間や出来事の連続にすべてを投げ出したくなる事もある日々だが、そんな事を考えたりしていると、「これまでのような平和な時代には、俺のやってる事は心身をすり減らす割りには、世間からは大して評価はされないし「暴力を教えている」ぐらいにしか映らなかったろう。「馬鹿な事をやってんなー」と確かに自分でも思ったものだった。

しかしこれからはちょっと違って来る気がする。「このような先の見えない正に「乱世」とでも言うような時代、単なる頭だけではだめで、「乱世」を切り拓き、乗り越えていくような逞しい心身を備えた人間でなければ生き残れないだろう。そんな人間を一人でも多く育てる事はそれなりに意義のあることではないのか?そこまでエラクはないにしろ、少なくともこれ以上「訳の解らない人間」を増やして世の中をますます混乱させないためにも、こんな仕事も必要なのじゃないか?世の中に何がしかの役に立ってはいるんじゃないか?これが俺の生涯の仕事なんじゃないのか?これが俺の『天命』と言うもじゃないのか」と開き直ったりするこのごろである。

文書日付2001.5

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