ロシア遠征レポート

土田真也(フランス支部)

押忍
最初にこの話を頂いたこと、貴重な経験をさせて頂いたことを感謝致します。
本来、日本の選手が招聘されるべきところ、北斗旗体力別の1週間後ということで、希望者が無く、驚いたことにフランスまで話が回ってきた次第。

試合当日まで3週間少々。折角の話だし、切羽詰った様子。深い考慮もなくあっさり承諾。熟慮したからと言って、何がどう変るわけでもないが、とにかく返事をした以上、出発日までに様々な義務をこなさねばならない。
こうして、この日から急遽慌ただしい日々が始まった。試合に向けてのトレーニング強化はもちろん、体重減少、休日申請、観光ビザの申請、またタイミング悪く引越しの予定もあり、その部屋探しなど・・・。今振り返れば結果的に充実した毎日で、アッという間に過ぎたといえるのが、そんな中ロシア入国の観光ビザ取得は曲者だった。

日本での申請も厄介らしいが、フランスでもそれに劣らず融通が利かない。早朝から行列してもその日館内にさえ入れないこともしばしばある。いわゆる門前払いだ。受付は午前中のみなので、仕事の都合で週に一度しか機会がないというのに、一度追い返された。その後このことをビザ申請代理人に話した所、「門番にいくらかこっそり握らせてれば建物には入れたのに・・・」と同情された。正直言って、ロシアに行く人間がこんなにいるとは思っていなかった。考えが大いに甘かった。しかし多くの者が自分同様、無駄足を踏まされていたのも事実だ。日本国籍者のロシア行きビザ申請は在日ロシア大使館(領事館)で行うのが普通だが、この為だけに日本へ一時帰国するわけにもいかず、在仏ロシア大使館へ申請した。この為少々例外的で、しかも提出書類にロシア滞在期間の保険証書を要求され、それらを揃えるだけで時間を大きくロスしてしまった。

このような経緯で時間的に自力不可能と観念し、結局ビザ申請の専門代理店に緊急依頼し、出発の前日、冷や汗ものでビザ付パスポートを手に入れた。航空券は既に自前で手配しており、このビザがおりなければモスクワでの航空券の払い戻しどころか、飛行機にさえ搭乗できず、全てが水の泡となる所だった。たかだかビザ申請料と航空券代とはいえ、現状ではそれを"窓から放り投げる(フランスではこう表現する)"余裕は無い。そんなこんなのバタバタで一時はドタキャンも頭をよぎったが、これも全て"人生万事が修行の糧"と思いなおし、またこんな事に手数料を払うのも癪ではあったが、最後は半ば自棄になりビザ申請のプロに全てを託した。そしてどうにか5月20日、無事9時15分AF2698便にて、Charles de Gaulle空港を発つこととなった。

この時点では、どうにか減量も上手くいき、大きな故障もなく稽古プログラムをこなし、最後にビザを取得し・・・、とそれなりに旅立ちの充実感に満たされていたものの、この4日後あの惨めさ、情けなさ、悔しさと共にパリに戻る事になろうとは、その時は考えてなかった。ここから少し今回の遠征の、メンタル面における変転を自分なりに少し整理してみたいと思う。言い訳じみて、あまり気が進まないが、今後何方かの参考になる事を期待して・・・

今回の試合、大きなイベントで大切な大会だという事は話には聞いていた。しかし自分は何もせずに終わった。相手の立場から言えば、敵の持ち味を消し、何もさせなかったことになるので、自分は何も出来なかった、と言っても正しい。久々の試合で、練習相手不足という事を考慮しても、この失態は痛い。想像しうる最悪のシナリオ。声をかけて下さった塾長、歓待してくれたモスクワ支部の方々に合わせる顔がなかった。出来る事なら試合後、あのままパリへ飛んでしまいたかった。しかもあの1回戦は大会本番が始まる前の予選のようなものだったのが、更に悔しさを増した。大会が華やかで、盛り上がれば盛り上がるほど、いたたまれなく、居場所が無かった。写真やサインを求められる事も惨めさに輪をかける・・・。

しかしそんな心情で、しばらくボーッと試合場を見るともなく眺めるうちに、思いついた。「これこそが、このネガティブな気分、考え自体を自分の中で上手く処理する事こそが今の自分がしなければならないことであって、このままうな垂れていても周りに気を使わせてしまうだけだし、ガッカリした振りするのも滑稽だ。今後も自分のやる事は決まっているのだし、これで人生が"The END"になるわけでもない。この失態が今の自分には必要だったのだ。」と考えるようになった。

今思えば、ああして無事出発できたことに安堵し、どこか緊張感の途切れと、油断を呼び込んだのかもしれない。さらに試合前の観光や宴も多少の気晴らしや、リラックスなど人によっては良いのかもしれないが、この遠征の目的を履き違えては行けない。これが過ぎ、この日まで徐々に盛り上げてきた緊張の糸と集中力が一度途切れたなら、いざ試合を迎えても闘争心にいつまでも火がつかない。意識はしっかりし、頭も冴えていながら、闘争の本能だけは眠ったままだ。"無心の冷静さ"ではなく、いろいろな考えだけが頭を巡る、"有心の冷静さ"とでも言おうか、何もしないままに終わった。舞台本番のはずなのだが、結果的には日頃の習慣だろうか指導的立場で"見て、受けて、返す"のパターンだったように記憶する。本当に優秀な選手は何処に行っても、どんな状況でもそれなりに結果を残すものだが、格闘競技者としての自分は甘い、結果に貪欲とは言い難い。

スポーツ全般はそこそここなし、恐らく一生辞められないだろう、そして格闘技も自分なりに続けると思う。しかし競技として続けるとなると話は別で、他競技同様、格闘競技でも、技術・体力・精神力が必要なことは言うまでも無いが、それとともに内から漲る鬱憤、倒さなければ倒されるという特殊な状況の中で自分を奮い立たせる闘争心、ハングリーな気持ちが特に必要となる。血気盛んな世代はともかく、先進国に生きる格闘競技者にとって、これこそが無意識の内に欠如しやすい一番の要素に思える。

ところでこのモスクワ大会の印象として、この大会を目標にして、この日の為に準備するのに十分値する、立派な大会だったという事を言っておかねばならない。ここに参加した選手はこの日に標準を合せ、長期間凌ぎを削ってきたのだろう。こんな選手の必死さに対して、ポッと呼ばれて、ふらっと試合するのとでは、試合に掛ける意気込み、思い入れが違う。世の中には名前だけは盛大な大会が多数存在するが、このモスクワ大会はそれらとは一線を隔し、ここの勝者は本物の実力者として認められて然るべき選手だと言えるだろう。

以上、自分の中にあった闘いにおける心理、考えを振り返ってみた。しかしこんな事にいくら頭を使ったところで、実際今後生き続ける中で、常に修行のネタが尽きる事はないだろう。それどころか今回の様に、毎度何か行動を起こす度に自分の未熟さが見え、学ぶべき事が増えていくのかもしれない。・・・それも困ったものだ。

3時20分、サンクトペテルブルグ着。パリとの時差2時間、4時間のフライト。
夏の装いのパリとは打って変わって、いきなり雨。未知の国ロシアに対して辛うじて持っていた暗く陰気なイメージ、そのままが目の前に現れた。空港の到着ゲートを出て、しばらくするとイカツク強面のキシロフ氏が"OSU!"ときた。一応"DAIDO-JUKU"と刺繍のあるブレザーを纏っていたものの、周りにいる他の出迎えのようにプラカードを掲げてはいなかった。代りに手にあったのは、何とスーパーセーフ(まあ、互いに一目瞭然なのは確かだが・・・)。それをチラッと見せ、あとは"押忍"だけで相互認知完了。どういう特徴で自分に目星をつけたのか知らないが、何はともあれ大道塾サンクト組と無事合流した。

キシロフ氏の他、若い塾生二人も迎えに来ており、彼(アントン)のロシア車「LADA」で市内へ。道は直線で単純だが、渋滞で進まない。塾長一行の居る中華料理店へ行く予定を変更して、直接ホテルへ。道中お互いたどたどしい英語でのコミュニケートが、異国に来た事を実感させる。言葉はいまいち判らなくとも、言いたい事はなんとなく解る。不思議とこれが面白い。幾つかの拾えた単語と今居る状況、そして彼の話振り、表情などから大体の主旨を汲み取る。相手も同様にして自分の言う事を理解してくれる。これが読みの利かない相手だったりすると、こっちの言いたい事をなんとなくでも汲み取ってもらえないので困る。異文化の中にいる事にはさすがにもう慣れた。むしろその方が、常に自分を意識できて快適だったりする。言葉の問題についても、誰も知らない国に一人旅に出る事を思えば、現地にこうして受け入れ先があり、信用できる人間が居るとわかっているのだから、何ら気後れすることもない。自分が間違った事をしない限り親切な筈だ、と信じる。

ましてや彼らは世界に「空道 大道塾」を普及させる為に日夜奮闘する、言わば"同志"なのだ。空道が世界中に発展するということは、同志・友人が、世界中にできるということでもある(もっとも競技に視点を移せば、ライバルが増えるという事でもあるが・・・)。出来る事ならいずれ、世界中の空道道場を修行がてら旅してみたい。

日本発祥の新しい武道がこうして世界中に発展しつつある。既に、世界各地には文化と呼べるものが無数に存在する中、何故に武道はここまで知られるようになったのか。この辺の解説はどこかの文章にあるだろうが、少なくとも武道には、何か人を惹きつける魅力があり、その人に何かしらの実益を与えるのだろう。

ホテルはこれまた薄暗い感じで、普通のアパートをホテルに改装したような部屋。旅行者には無用のやたら大きな家具の存在が記憶に強い。また赤錆の湯船にも驚いた。ロシアではこれが普通かと一瞬考えたが、さすがにその判断は失礼なので、「鉄分の強い温泉の素」でも混ぜたのだと思い込ませ、躊躇せず湯に浸った。後でどこか痒くなるという事もなかったが、「赤い温泉」と思い込むには無理があり、早々に退散した。それでもパリの屋根裏部屋に比べ、バスタブがあるだけましというものか・・・。

少し休み、サンクト道場視察の為ロビーへ集合。ここで塾長一行と合流、塾長とはこの3月末にお会いしたばかり。松井館長との宴がまだ記憶に新しい。道場は市内で抜群の立地、建物自体キレイとは言いがたいが、大道塾優先の道場のようでさしずめサンクト本部と言った所、羨ましい。板間にカーペットで必要に応じて畳を並べる。この日は子供から大人まで約30人弱が集まって稽古していた。しかし肝心の支部長ピロコフ氏が居ない。このロシア遠征の話を頂いた当初はサンクトでセミナーだと聞いていたが、どうもそんな雰囲気ではない。>

若月君と自分はピロコフ氏が来るまで、ウォーミングアップをしながら待機。稽古も程よく進んだ所で、塾長の直接指導が入り、ピロコフ支部長が現れて、我々が最後基本稽古で締めくくった。空道大道塾と名乗って活動しているからには、世界中何処に行っても通用する一貫した稽古体系を守り、習得していなければならないはずだ。それがないなら雑多なクラブ、流派の単なる寄せ集めで終わってしまう。もちろんこれは形式上統一するとの表面的な理由ではなく、基本・移動の確実な習得が、長い目で見た技術向上の根幹になるとの考えに基づく事は言うに及ばない。

こうして慌ただしく稽古査察が終わり、今度は何やらややこしい話し合いのようだ。モスクワからゾーリン支部長、アナスキン支部長、通訳のジーナさんもサンクトに同行しており、サンクトのピロコフ支部長、キシロフ氏も含めてシビアな議論があった。その後はサンクトの中華屋で食事。ここではピロコフさんもついさっきまでのストレスを晴らすかのごとく、乾杯を繰り返していた。もっとも自分のほうもこれまでの食事制限の鬱憤がこの時から晴らされる事になり、どこか緊張の糸が緩み、享楽への誘いに屈してしまった感がある。「計量は気にするな」との言葉に浮かれて食欲と共に緊張感まで開放したのだろうか。これがアナスキン氏の策略だとしたら、上手くはまり過ぎだ。もちろんこんな風には考えていない、彼らの好意100%のもてなしだと思っている。

ところで世界に名の知れるそこそこの都市には中華料理屋が一軒はある。そして大概庶民向け。遠い異国で日本人の舌にあった、食べなれた料理の存在は非常に有難い。中国人の生命力に感謝だ。
このレストランを出たのが24時ごろだったが、空は見事に青白かった。白夜ヘの過渡期らしい。フランスでもこの時期10時まで明るいが、さすがに日付変更時には暗い。

翌21日はサンクト観光とモスクワへの移動。
午前中から午後にかけて、サンクト市内の河をクルージング。昨日とは打って変わっての快晴。昨日間近で見た建物を、今日は水上から遠めに眺める。すると建物それぞれが互いにバランスを保ち、淡い、やわらかな色合いの調和を見せ並んでいる事に気付いた。パリの建物も似たような造りだが、こんなに色とりどりではない。ここサンクトの街並みは河からの眺めを考慮して造られたのでは、と思っていたところ、ヴェニスを参考に造られたと聞いて大いに納得した。

車なら一時間かかるところクルーザーで20分。街中は1歩も観光してないが、このクルージングで主な名所は一応視界に収めた。普通の観光ではまず味わう事の出来ない体験が出来たのだから、これで充分満足。これも空道大道塾に関わる全ての人のおかげだ。人生を充実させる為にはいろんな経験をするに限る。時にそれは歓迎したくない経験だったり、非常に大きな勇気とエネルギーを要求される経験だったりするが、自身を強く逞しくしてくれる事は確かのようである。こんなことを若輩者の自分が言うのも僭越至極だが、これからも安きに甘んじず、常に挑戦を心掛けていきたい。

ところでこの日天気は好いものの、風は強く、回りを見渡せば、我々以外にボートはいない。それもそのはず、普通こんな強風の日はクルージングするものではないらしい。しかしこのピロコフ支部長の友人キャプテン、コンスタンチン氏はこの日、この時間しか我々を案内できないとの事で強行出港してくれた。何と嬉しい好意だろう。ただ最後ボートを停泊させる際、左右のボートにぶつかっていたので、なんか無理させて悪い事したなと、心苦しかった。こんな時は言葉が通じず、慰めの言葉も見つからず、もどかしい。その事に触れないようにするだけだった。それを察してか、コンスタンチン氏の方から「大丈夫、問題ないから心配しないで」と言ってくれた。

彼はサンクト市内で幾つかゲームセンターのような店を経営していると聞いたが、なる程さすが落ち着いて余裕がある。その後は停泊港のコテージで食事。ピロコフ氏もキシロフ氏も大揺れのクルージング中から呑んでいたが、この食事の時もすごかった。何かと言っては乾杯し、その度毎にウォッカをグイグイ流しこんでいた。それに付き合う塾長も凄いが、あれは果たして義務なのだろうか? もしそうなら本物の空道家ヘの道のりは果てしなく長い。

そして最後、奥さんの話でピロコフ氏が感涙していたのが印象的だ。本来ピロコフ氏がロシアに大道塾を紹介した第一人者らしい。彼にはその威厳もあるだろうが、その後のスマートに行かなかった普及活動と彼の立場、そして様々なノスタルジーが一気に押し寄せ、感極まったのだろう。危うく自分ももらい泣きしそうだった。

この後は16h00のロシア最速列車(ロシアの新幹線といっていたが・・・)でモスクワへ行く為、駅まで車で移動。コンスタンチン氏とはこの港でお別れ。招待される側だとなかなか気付きにくいが、招待する側はこの日の為に実はいろいろ考え、準備してもてなしてくれる。塾長を招くという事は大変な事だが、重要で名誉なことなのだ。海外支部の状況を見ることは、自分にとってもフランス大道塾にとっても大いに勉強になる。そして最後の最後、駅のホームでも乾杯し、逃げる様に列車に乗り込んだ。

車内はゆったりした造り、やはりここは大柄ロシア人の国だ。小柄である事で良い思いをした記憶はあまりないが、飛行機や列車の座席で窮屈な思いをしないですむのは利点の一つと数えてよいだろう。(蛇足だが、飛行機ではサイズで得しても、重量で損した気持ちにさせられる。つまり同サイズの座席に大きい人が座るのに比べ、よりゆったりできるが、体重の軽い分をスーツケースの重量などに加味されない。20kgの体重差があればバック一つ分に充分相当する。)またロシアの特急には各座席にティッシュ箱大の"おやつ・つまみセット"まで用意してあったのには少々驚かされた。

サンクト−モスクワ5時間の移動はパリ−サンクト間の飛行時間より長時間だったが、思いのほか退屈せずいつのまにかモスクワに来ていた。道中の景色はあまり見なかったが、針葉樹が多かった。見渡す限りの自然の中、日の出とともに働き、日没とともに寝る生活も悪くないかなど、うつらうつら考えていた気がする。2〜3列離れた席に通訳のジーナさんが座っていたが、出発から到着まで彼女の喋り声だけはよく聞こえた。通訳なので少なくとも人より2倍は喋らねばならないので、こんな時ぐらい少しは休んでもよさそうなものだが、そんな事は気にしてない様子。話す事が好きなのだろう。大いに感心すると同時に、喋る事自体が面倒だったりする自分には、外国語会話の習得や通訳はつくづく向いてないなと考えた。

モスクワに着くとまた一気に慌ただしく、現実に引き戻された。話には聞いていたが、連れて行かれたホテルは人生のうちに一度は泊まりたいと思うような立派なホテル。立派過ぎて、庶民の自分には逆に落ち着かなかったりする。何より嬉しいのは従業員のお客を敬う態度だ。建物や設備は資本があれば似たようなものは出きるが、それに見合うだけの気分よく接してくれるサービスはなかなか無い。お客への最低限の心遣いは日本なら何処へ行ってもある程度期待できるが、海外ではその辺の事もクラスによる。低級クラスだと料金を払う客がホテル従業員に気を使う羽目になる。

部屋に荷物を置き、すぐにホテル2階のレストラン「POLO CLUB」で食事。普段夢はあまりみないし、まず覚えてないが、減量中に見た夢でひとつ珍しく鮮明に覚えていたものがあった。それが何ということか、この時目の前に出された色よく焼かれ、厚く、自然と唾を呑み込む肉塊だった。このデジャヴュ(dejavu)には非常に驚いたが、こんな卑賎な夢は案外あっさり実現してしまうものだ、とも考えた。モスクワ支部幹部の皆さん、本当にご馳走様でした。

翌朝は若月君と一緒に、早速ホテルのスポーツジムを活用させてもらった。広さはそれ程でもないが、一通りのものは揃っており、清潔で如何にもホテルのジムといった感じ。このジムの責任者がモスクワ支部のフィリポフ氏らしい。他にもこのホテルの従業員には塾生が居るらしく、昨晩のレストランのサービス係にも塾生がいたという話だ。その後朝食を済ませ、少々ヤンチャ系な塾生マキシムのトヨタ車で予選会場の体育館までカーレース。果たして普段からこんな運転なのか、我々の存在を意識してわざと飛ばしているのか知らないが、世界の大道塾生には飛ばし屋が多いようだ。

着いた先の体育館は恐らくいつもの稽古場なのだろう、広さは申し分無いがやけに年季の入ったプレハブ建だ。ここで明日のトーナメントの人数調整選抜試合が十数試合行われた。審判もこの日ロシア中から集まったらしく判定基準にムラがあったが、無事2時間弱で全試合を終了。終了直前に塾長一行が到着し、そのままロシア支部長会議に突入していった。海外支部の直面する問題として、この会議も自分には興味があったのだが、ここはひとまず若月君と二人、ホテルに戻って休息する事にした。ホテルへ戻る車は、ウクライナの南に位置するモルダビアからの移民ロメオ・アダムの4駆、ジーナさんの妹でモスクワにあるTOYO(東洋?)大学で日本語を専攻するナターシャさんも一緒に、行きとは対照的に渋滞でノロノロ、倍の時間をかけてホテルに戻った。ホテル地下のジムの横に、プールとジャグジーがあったので、ここもひと通り活用して、部屋で小休止。

夕方またロメオとナターシャが迎えに来て、若月君と能勢さんと自分を市内観光に案内してくれた。ホテルからすぐ横のボリショイ劇場から始まり、モスクワ市内を見下ろす小高い丘から翌日の会場を眺め、軍事博物館の公園で戦車に登り、最後は赤の広場でレーニン廟を確認した。一応見所を直接網膜に焼き付けたので充分だ。今回は予習もせずに出てきたので特に何も見たいというものは無かった(と言っても別に毎回バッチリ下調べして行くわけではない・・・)。その土地の歴史なり、多少のウンチクなりを仕入れていけば、思い入れもまた違って来るのだが、今回はただ"媒体無しで見ました"でしかない。

以前マドリッドで美術館や博物館をこれでもかという程みて回ったが、人込みの中を流されるまま歩き、大した感動も無く、今ではピカソの"ゲルニカ"しか記憶に無い。感想も「はい、一応見ました。」のひと言だけ、それ以上の感想は頭を捻って無理して絞り出す必要がある。もともと自分の中にそれを見て感動できるだけの素養が備わってない事に気付いた。その事実を無視して、教養人を気取り、知ったかぶりして、感動した真似はできない。この分だとルーブル美術館のジャコンダ(モナリザ)にも一生縁が無さそうだ・・・。

実はこの日塾長の生誕記念日だった。我々3人で乏しい知恵を絞り、記念品が最終的にイタリアンネクタイに落ち着いた。折角モスクワに居るのにイタリアンってのも芸が無い、ここは何かロシアンでと粘ったが、如何せん残された時間が僅かだったのが残念だ。そんな訳でこの晩はバースデーパーティー。しかしさすがに我々二人は翌日のことを考え大人しくホテルへ。

何とも凄い日程を組んだものだ。これだけいろいろ歓待されれば塾長も主賓としてもちろん悪い気はしないだろうが、さすがにこうも毎日だと皆の好意を受け止めるだけでも大変だ。支部長は夫々塾長に会するのを名誉に思い、この日を心待ちにしてやって来る。そんな人達を2〜30人一体どうやって相手にしているのだろう。この晩能勢さんはこのパーティーの撮影に行ったので、若月君と自分、ロメオ、ナターシャの4人は学生向けファミリ−レストランで慎ましく食事した。これはこれで落ち着いた一時で、ここでの壷入りクリームサワースープは美味かった。ついでだが、価格はモスクワもパリもそう変らなかったように記憶する・・・。

さてやっと5月23日、試合当日までたどり着いた。ロメオとゾーリン支部長の迎えで会場へ。昨日丘の上から見て指差された会場ではなく、その隣の一回り小さい方だった。とはいえかなり立派な会場でモスクワの幹部が長年開催を願っていたというのも頷ける。今回がこの会場への初進出らしく、その意気込みが感じられた。我々二人は支部長の控え室で準備。

試合についてはもうあまり記す事は無い。自分が先に敗れ、若月君には悪い事をした。負けはしたが彼の方が気持ちを露わにガンガン闘っていた。これだけは彼の名誉の為に言っておきたい。大会の進行は確かにいまいちよく分からなかったが、海外の大会なんてこんなものだろう。自分の相手は右の蹴りが鋭く、組打ちが粘り強かった。それだけではあったが、常に退がりつつも、時折その持ち味を活かして上手く闘っていた。脱帽というしかない。技に偏りきれいに勝たしてもらえるほど甘い相手ではない。もっと我武者羅さと泥臭さが必要だ。全く何もしなかった事が、今でも腹立たしい。もちろん相手に何もさせてもらえなかったわけだが・・・。スパーリング不足の一言で片付けられるほど、軽い症状ではない。早急にフランス支部の選手を養成し、切磋琢磨できる環境を整えたい。自分自身がリベンジするのも大切だが、フランスの塾生がロシア選手を打ち負かすのを見たい気持ちもある。そう遠くない2、3年のうちに実現させたい。

試合後は二人してお通夜状態だった。大会の盛り上がりと反比例して沈んだ。しかしこの敗戦も含め、長い目で見れば自分にとってこの遠征は大いにプラスだ。こうして悔しい思いをするのも次に繋げる為の何かだろう。また試合以外でもロシア及びその周辺支部の幹部と面識を得た。大会運営を観察し、その他いろんな面で勉強になった。もちろんこれは今後フランスでの活動に活かしていくつもりだ。これからはこう行った外交的仕事も積極的にこなしていかねばならなくなるだろう。しかしまずは何と言っても、内部拡充に尽きる。

大会は歌あり、踊りあり、喋りありで盛況のうちに幕を閉じた。各階級とも地元モスクワ勢が優位を占めていた。この後会場のホールでカクテルパティーが12時まで続き、続いて20人弱のメンバーでカラオケ(何処に行っても在るものらしい)、最後に日本勢だけでホテルの前の日本食「YAKITORI」で雑炊、ラーメン、餃子を試した。メニューが豊富でオールナイト営業なのには感心したが、たったこれだけの注文に30分以上待たされてはたまらない。正直モスクワのラーメンに期待してはいなかったものの、思った以上にがっかりした。

そして店を出てホテルに戻ったのが5時だったか。ホテルで大人しく寝る為にここに来たわけではもちろん無いが、モスクワでも日本でもパリでもやる事はほぼ一緒のようだ。ヘロヘロになってまで楽しもうとする、こういう楽しみ方を外国人(私の知っているフランス人は特に)は理解に苦しみ、もっとスマートな楽しみ方を良しとする向きもあるかもしれない。しかしこれはこれでまた違った味わい・・・どう表現すべきか困るが、一種の連帯感?・・・もっと噛み砕いて、特異体験の想い出の共有による充実感?・・・とでも言おうか、を彼らには理解し、体感して欲しい。

その辺が大道塾に対する向き、不向きを左右するポイント?といったら言い過ぎか。もっともモスクワの面々の事は端から念頭に無い。彼らはこの味覚を知り尽くしている。特にゾーリン支部長の身体には、この喜びが骨の髄までしみ込んでいた。このレベルにまでなることは期待しないが、フランスの塾生はもっと経験を積む必要があるだろう。

5/24翌朝(つまり数時間後)チェックアウト、10時ロビーに集合。塾長とモスクワ支部幹部のミーティングの間、若月君、能勢さんと共にホテル周辺を散歩がてら両替と買い物。この時初めてルーブルを手にし、地元住民に混じって食料品店で買い物。異邦人がオタオタしているのをと見ると、世話好きなおじさん、おばさんがどこからともなく現われるのはどの国でも一緒。この時もレジでドルとルーブルを混同して会計する自分を見かねたおじさんが、丁寧にロシア語で教えてくれた。言ってくれる事は何一つ理解出来なかったが、言いたい事は推測できた。とりあえず笑顔で「スパシーバ、ダスビダーニア」。

その後本隊に合流しホテル向かいのドイツビール専門レストランで、この顔合わせでの最後の食事。ホテルの朝食ビュッフェが快適で、実はこの朝もチェックアウト前に寄って来ていたので、昼は軽く、あっさりした料理を身体は望んでいたが、どう言うわけか、結局出されるままに片付けた。この後は3台の車に分乗し空港へ直行。

朝の散歩中に降り出した雨がこの時には激しく本降りになっていた。"この雨はモスクワの涙、塾長の帰国を悲しみ、泣いている"とゾーリン支部長が力説したのは覚えているが、消化吸収で腹部に神経が集中し、ウトウトするうちに空港の直前まで来た。一旦停車し別の車に乗っていた塾長はじめ事務局長、能勢さん、若月君、そしてアナスキン支部長、運転手ロメオに慌ただしく挨拶。無事の帰国を願った。そして最後ゾーリン支部長、ジーナさんに空港内のチェックイン、ゲートを通るとこまで見送ってもらい19h30発 復路AF2245便、2時間のフライトで遅れもなく無事パリに帰った。

かつてはシャルル・ド・ゴール空港に見送りに行く度、日本に帰る人達を羨ましく、自分は置き去られるような複雑な思いが必ず沸いてきたものだった。ところが今この空港に着くと、"自分の居場所へ戻ってきた"感覚がまぎれもなく存在する。経てきた年月を思えば、当然ともいえるがやっぱり不思議だ。この事実を不思議な事、おかしな事と受け止めようとすること自体、自分の中でどこか、こうして変化していく自分に対する、無意識の抵抗があるのかもしれない。

・・・そんな事はともかくとして、ロシア遠征から無事帰った。結果は散々だったが、生きて帰った。3月末にはモロッコに行き、7月末にはイタリア、ストッパ道場へ夏季稽古に参加した。これら全て大道塾絡みで、艱難辛苦も当然あるが、本当に良い経験をさせてもらっている。

最後になったが、塾長はじめ多くの方々の多大な努力、辛抱、苦労、貴重な支えで世に「空道・大道塾」が存在している。このことを感謝しなければならない。そしてまた、何故か同時代に自分が生きている。この巡り合せにも感謝したい。

振り返ればあれこれ思い浮かび、ズルズル綴る事となってしまった。以上をもってロシア遠征レポートを結びたいと思う。押忍

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