ザ・グレートジャーニージャパン企画参加の報告

アレクセイ・コノネンコ(東北本部)
期間:7月20日〜9月9日
ロケ地:アムール川流域

今回、東塾長の了承をいただき再びグレートジャーニー計画に参加させていただきました。始めに東先生と大道塾の皆さんに感謝を申し上げます。私にとって武道というのは、道場の中で試合にむけて練習するということだけではなくライフスタイルです。つまり、道場で修業して鍛えた体と精神を日常の生活の中で生活のために使うということです。私はグレートジャーニーに参加し評価されましたのは、やりつづけている武道のお陰だと思います。旅に適用する人というのは、先ず自分を調節して他の人とうまく行く人、何でも食べる人、どんな状況でも文句言わない人、我慢できる人、諦めないで最後まで行く人、持久力のある人です。もちろん、直接にそういうことを道場では習わないのですが修業の中で仲間と一緒に厳しい練習を続けてお互いの気持ちが分かるようになる、自分の感情をコントロールできるようになる、どんなに痛くても苦しくてもやりつづける、それを経て自分の力に自身を持つ、体力的に力と持久力がつく。私が、この仕事をできるのは大道塾の修業の成果だと思います。

ザ・グレートジャーニーとは、考古学を普及しようとしているアメリカの研究者B・ファーガンが名づけた「人類の旅」という意味です。定説によると人類は、アフリカに生まれて地球のあらゆるところまで広がってきたのです。日本の医者、関野吉晴氏は人類の起源と分布に興味をもち1993年から人類がいままでたどった旅を逆方向の南アメリカからアフリカへと始めた。途中で原住民と会い現代社会で生きている我々が、自然環境に対しての感謝の気持ちを再び勉強しながら出発をしました。このプロジェクトをザ・グレートジャーにーと名づけました。
ザ・グレートジャーニーは2001にアフリカ、タンザニアで終わったのですが、関野氏の旅は終わりませんでした。次に日本人の起源を探るザ・グレートジャーニー・ジャパンという新しい企画を発表しました。現代日本人は、文化的にも人種的にもとても統一しているといわれていますが、様々な面から見ますと北から南へと、実に色々な変化が見られます。それは日本列島が時代ごとに、数回にわたり様々な人々に定住されたという意味をあらわしています。それに関していくつかの説があり関野氏は旅をしながらその説を確かめることにしました。

今回の旅は、北のルートという説に基づいて企画されました。北のルートという説は、1万5千年前に日本列島が大陸とつながり、当時の猟師は陸橋を使って大陸からサハリン島、北海道を通して北から本州に入り込んだという説です。この人たちは、細石刃文化を持った猟師と言われています。細石刃というのは石から多数の小さいブレードをとって、そのブレードを木か角のシャフトに食い込ませて道具を作るという技法です。この技法は移動生活をしていた猟師にとてもふさわしい技法です。この文化を持った人たちは、大体モンゴルあたりから東に移動して日本列島までたどり着きました。この移動ルートでモンゴルから太平洋へ流れているアムール川は、とても大きな役割を果たしました。人は一番動きやすい自然な道で川の流れ沿いに、太平洋側まで下ったといいます。日本列島までたどり着いたこの人たちは縄文人の先祖になったと言われています。

関野氏の旅はアムール川沿いに上流から河口まで下るということになりました。前回のグレートジャーニーの時に、関野氏は、ヤクーツクからシベリア鉄道まで南下し、西の方へ曲がってバイカル湖まで進み、そこからモンゴルに向いました。今回は前回のグレートジャーニーとつなげるために、シベリア鉄道に出て西に向った場所から東に進むこととなりました。この場所の名前はスコヴォロジノです。ここはとても大きな鉄道の分岐点です。アムール川の起源はモンゴルにあるのですが、本流はロシア−中国国境、アルグニ川とシルカ川が合流するところから始まり、スコヴォロジノから鉄道と道路は、ほぼ川沿いにはしっています。

道路があるという情報をうけて今回自転車で出発したのですが、つい最近までロシアの東と西は一般道路でつながっていませんでした。国道の建設は昔から続いていますが、今までは極東から中央ロシアまでの移動手段は飛行機かシベリア鉄道だけでした。ロシアのプーチン大統領が就任してからは、この国道の建設はより早く進められ、今年になって道路がつながったという大きなニュースが各地で流れていました。実際につながったといっても道路の8割ぐらいはまだ工事中です。当然、舗装されてない穴だらけの砂利道で車は通れるかどうかというところが多い状態です。私達はこの状況の中、自転車で出発しました。

今年のシベリアの夏は特に暑かった。お昼の気温は30℃を越えていた。自転車をこぐ時には持久力が一番大切です。慣れればリズムにのって一日に100キロを平気の走れます。ただ、最初に必ず筋肉が痛くなる。不断使ってない筋肉使うと多量の乳酸が筋肉の中に発生しそれは筋肉痛の原因になる。私達は初日に軽く20−30キロぐらい慣らしで走ろうと思いましたが悪路がずっと続いていて止まるにはいい場所がなかなかなく、結局はじめから60キロ近く走りました。この日は特に暑く、そして一日の走行距離は多くても30キロだと思い、水をあまり持っていなかった。激しい暑さの中で走りつづけることによって水分、塩分、ミネラルは汗と一緒に多量にでていたため脱水症状が始まり、視力が落ちて、めまいが始まった。そして、関野氏も私も、ものすごく強い足の筋肉痛に襲われました。足がつって動けなくなったところで初日を終えた。初日のことを反省し必ず漫然に準備するようにした、特に水分の補給とお腹いっぱいでも食事をとるようにしました。最初の2,3日は苦しかったのですが慣れていき一日に大体100−120キロを走るというペースで進んでいました。

出発地からしばらく平らな道が続いていた。ブラゴヴェースチェンスク市の近くだと、ほんとに平坦のところで周りは360度なにもない草原を見渡せる。この広さと大きさに圧倒されます。今は雑草地なのですが近くの村人に訪ねると昔は、この広い土地全部コルホーズの畑だったそうです。コルホーズはつぶれた時にその土地と所有物は農民の間に分けられた。しかし、この土地は個人で開発するには大きすぎて、農業機械が不良で不足している上に新しい機械を買う収入も能力もないのが現状です。金融制度はまだ弱いため銀行に頼ることもできない。結局、昔の畑は雑草地になった。この状況を調べるために途中で私達は小さな村の家族を訪問しました。60代の夫婦でご主人は、学校の元校長先生でした。今2人は年金生活を送っているのですが、年金だけでの生活は不可能のため庭とコルホーズから受け取った畑でじゃがいも、トマト、野菜などを作って自給自足の暮らしを続けています。ロシアの現代社会福祉制度はとても弱くなっています。年寄りと障害者は国に見捨てられているような状況です。社会福祉は、国の経済力と大きさに大きく制御される。様々な問題を抱えているロシアは社会福祉問題まで手が届かない。特に、離れた地域の人は、ほんとになんの保証もなく自力で生活を送らなきゃいけない。この状況の中で家族を背負う男性には非常に大きな責任があります。家族を維持するために、男は国に頼れないので自分と家族の生活を保証しなくてはいけない。それは大きなストレスを与えるためロシアでは男性の平均寿命は短いのです。

この道をしばらく1日100キロぐらいのペースで進んでいた。一番驚いたのは、この道路を毎日朝から晩までナンバープレートのない日本の中古車が東から西へ走ってることです。その原因は、ロシア国内の自動車メーカーのほとんどは、西の方で集中していて生産している車は値段が高くて壊れやすいのため、あまり人気がないのです。そんな国産車でさえ極東では手に入りづらいという状況のなかでは、日本の中古車と比べても勝ち目はありません。日本車はロシアのシベリア、極東地域でものすごく人気があり運搬業者は次々と日本から車を運んできます。ロシアの政府は国内産業を守るために、関税を上げたりしますがそれでも日本車の人気は落ちない。そして、シベリアからくる人たちはウラジオストク、ナホトカ、ハバロフスクで中古車を買ってシベリア、バイカル付近まで運んでそこで、より高く売ります。失業率の高いロシアで、これは多くの人の唯一の収入方法となっている。途中で色んな運び屋に出会ったが、例えば、夫婦でやっている人もいました。奥さんは元婦人警察官で夏休みのあいだに仕事のないご主人と運び屋をやって、少しでも稼ぎたいという。こういう運び屋は、例えば、ウラジオストクからイルクーツクまで5000キロを5日か6日で走ります。一日のノルマは700キロです。もちろん道も悪いし、事故もよく起きるし、泥棒、強盗、マフィアもいます。非常に危ない仕事なのです。今まで道路はつながってなかったので、途中で車を貨物電車に載せて運んだのですが、今年から全部を自力で運ぶ人が増えました。穴ボコだらけの砂利道を、時速140キロの猛スピードで走る日本の軽自動車を見ると、それを作った人はこういう走り方を想像していたのかと思ったりもした。そして、いくら人気あってもこの道路を5000キロ走ってから西で売られている日本の中古車を買わないほうがいいだろうと思いました。

関野氏とこの道を進んでいる時に、お昼は道路沿いのドライブインで食べていました。大体100キロに一軒は必ずあります。一つの店で食事を食べながらとても意味深い会話をするできました。人ってどうして旅をするのですか?人ってなんですか?人間は動物とどこが違うのですか?多くの研究者は、人間とは、道具を使い始めた時点から始まるといいますが道具を使っている動物もいますし集団で行動する動物もいます、しかし人間にはなりません。人類の歴史を見ると現代まで人類は、全地球に広がってどんなに厳しい環境にも適応して冒険を続けています。そして、次の冒険は他の星に向けて既に始まっています。動物ももちろん移動をしますが、それはほとんど食料補給と関連し、目的のはっきりした行動ではないのです、それに対し、人間は様々な動機で移動をする。そこが人間と動物の違いです。移動、旅、冒険は、人の自然な環境で人間という者を定義します。研究者は人間をHomoと呼びそれから発展段階にあった定義を付けますが、さきほどの考え方からもう一つの定義が生まれる、Homo Mobilis−移動する人間。移動は大きな意味で私達を人間として成り立たせる。

8月の始めにハバロフスク市に着きました。ハバロフスクは、あまり大きくない町ですがロシア極東の首都と言われています。ハバロフスクから私達のルートは国道を離れてアムール川沿いの道で河口に向った。ハバロフスクから河口まで900キロあり、その内にコムソモリスクという町まで道路は舗装されていますが、残りは悪路です。この悪路は半端ではなかった想像を越える地獄のような道です。山が多く、道はゴロゴロする大きな石からなっていたため自転車は全く進まない、登り坂はほとんど押していた。この登り坂も山のてっぺんまで何キロも続いていた。その他に、悪路に入ったと共に天候も悪化し、毎日雨、8月末に気温は10℃前後だった。この状況の中で私達は8月20日に目的地、ラザレフ岬につきました。ラザレフ岬というのは、大陸とサハリン島との間に一番狭いところで、8キロしかないのです。岬から反対側のサハリンが見えます。その間の海峡はマミヤ海峡で古代冒険家 間宮林蔵の名で付けられた。間宮林蔵は日本ではとても有名でサハリン島、アムール川の下流を冒険して、その情報を記録して残した冒険家です。彼が初めてサハリンが島と証明したため大陸と島の間の海峡はマミヤ海峡となった。しかし、ロシアでは間宮林蔵と彼の成果はまったくといってもいいぐらい知られてないのです。同じ時代に東を占めるためにロシアの冒険家もこの地域で活動していた。その一人は海軍の将校ネベリスコイー氏だった。ロシアの公式な教科書で彼が海峡を見つけたと書かれ、ロシアの地図ではネベリスコイー海峡と示してあります。やはり、歴史の見方と解釈は国によって異なると思いました。ラザレフ岬には、スターリンが大陸からサハリンにつながるトンネルを建設しようとした跡があります。スターリン時代にロシアのあっちこっちで色々な巨大な計画が実施されていた。サハリンのトンネルもその内の一つでした。恐らく狙いは、隣にアメリカが占めている日本があるのでロシアの軍事施設を強化し、サハリンに軍を気付かれない間に素早く移動させることでした。しかし、スターリンが亡くなってから作業もすぐに止まった。今この建設跡は暗黒時代の破片として残されている。

ラザレフ岬で私達の自転車の旅が一旦終わりましたが、今回の取材まだ終わってなかった。全部で2100キロぐらいを自転車で走りましたが途中で会う人たちはほとんどがロシア人でした。しかし、この地域で昔から様々な先住民が狩に頼りながら生活を送っていた。この先住民の取材のため、再びにアムール川に戻ってきた。本流に戻って日本からもってきたカヤックを使いアムール川を150キロぐらい下ってウデリ湖の近くにカリチョム村に住んでいるウリチ族の生活を取材する予定でした。ウリチ族はアムール川流域に住んでいる先住民の一つです。先住民は昔からアムール川沿いの、特に下流に住んでいます。ウデリ湖付近で行われた発掘調査で、人は2万年前以上にここで住んでいたと分かりました。この最初の人たちは西から移動した、細石刃文化を持つ猟師たちでした。アムール川下流の特徴は、鮭鱒がここに産卵のために多量にあがってくることです。鮭鱒の種類により大体6月から10月まで魚が取れ、それから川と湖に生息している魚は一年中取れます。細石刃文化の猟師たちは大型動物を追いかけながら、ずっと移動生活をしなければならなかった。しかし、アムール川河口の資源が豊かなこの環境に適応できた人たちは川沿いに暮らして、あがってくる魚の資源を上手に使えば長距離の移動の必要がなくなります。実際にこの地域で半定住、定住の痕跡がとても早い時期に現れます。その一つは土器の起源です。土器の起源は普段、農耕の始まりと結びついているですがアムール川流域で土器は農耕以前に出現し、一番古いものは14000年の土器と見られます。アムール川流域の最古土器は漁猟に関連する半定住生活の中で出現したと考えられています。現代の先住民は川の資源に適応した人々の子孫です。彼らの生活は産卵しに川にあがってくる鮭鱒の資源管理にかかっている。漁猟のほかにもちろん猟や採集などをやっています。

私達はカヤックで全住民の村まで下った。出発して2日目、強い向かい風が吹き始めた。アムール川は非常に広いため、強い風で大きな波が立ちます。その日は移動が危険と判明して一日無人島で待機しました。次の日にはいっきに村まで移動しました。

この村は人口約100人で9割がウリチ族です。ウリチ族はアムール川下流で住んでいる様々な先住民の一つです。ウリチ族は昔から季節の漁猟、狩をしながら生活をおくっていた。カリチョム村はウデリ湖と本流をつなぐ支流で位置するため、本流であがる魚と湖で生息する魚の両方がとれます。その他に、湖に流れる山の川で渓流釣りができます、そして魚が釣れない時期には山で毛皮の猟、ヘラジカの猟ができます。湖と川の資源をあわせると一年中魚を取れますので、ウリチ族は昔から漁猟による定住生活を送っていた。この地域にロシア人は早く進入したため、先住民の生活風習が長期間に渡り強い影響を受け、特に住居と服装はロシア人と同じものになりました。この影響は特にソ連時代に強く、先住民は自分たちの文化、言葉を失いそうな状態になりました。ソ連時代でこの地域にたくさんの中国人がすんでいてウリチ族との混ざったカップルが多かったのですが、ソ連政権によって中国人は強制的に出されて、残った人とそのウリチ族の親戚は処罰されました。残った先住民は大きな村で集められてコルホーズで働かされた。それまでに先住民は共同体単位で暮らして取った魚を自分たちのために使い、余った分を売ったり、必要品に交換したりしました。コルホーズになってからは取った魚をコルホーズに預け、国から給料をもらうという形になっていた。しかし、ソ連と共にコルホーズもなくなったため、現金収入をもらえなくなった先住民は猟でとったものを都会からくる実業家に個人個人で売るようになった。高収入の追及で先住民だけではなく町からくる人たちは、猟をし始めて自然資源の野蛮な利用が始まったため、それを止めよとする政権は密漁の取り締まりをより厳しくしてきました。そのために先住民は取れる量が制限され現金収入の資源はなくなった上に生活に必要な分も足りなくなってきた。この状況の中で様々な社会問題が起き現在の段階は先住民が密漁をせざるを得ない。

私達の今回の取材は終わって9月始めに日本に戻ってきたのですがこの企画は次に続きます。今度の予定は10月にサハ共和国で、北極圏を越えたところのエヴェンキ族の取材です。この人たちはトナカイを遊牧し、野生トナカイとシベリアビッグホーンを狩していて縄文時代の人と似たような生活を送っています。その次は来年の1,2月に凍ったマミヤ海峡を横断し翌夏にサハリン島を自転車で南下しカヤックで北海道に渡って、初めての猟師は日本にきた北ルートを完成させる。

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